今天我们继续推送“熊猫杯”全日本青年征文大赛获奖作品,一起来看看今村宽明与中国的故事吧!
今村宽明 :日本学习院大学文学部哲学系1年级学生
我有两个姓氏——“今村”和“董”。
“今村”这个姓氏,表示我是日本人。生在日本、长在日本的我在生活中自报家门时,当然是自称“今村”。户籍里登记的也是这个姓氏。但另一个姓氏“董”,我却用之甚少。这个姓氏,表示我身体里流淌着中国的血脉。
上中学时,我没怎么向朋友们坦白我是个中日混血儿。就算坦白,也只是向那几个推心置腹的死党。而且,我甚至没有向朋友过多袒露自己的情况。生活在日本、熟练使用日语的人突然释放出中国 “气息”,会让我有一种难以言喻且微妙的紧张感。我想象过很多次这样的场景。如果对那些半开玩笑地讲着排华言论的朋友们说“我是中日混血”,他们的脸上会作何表情。由于这种微妙的紧张感,我将“身体里流淌着中国血脉”这件事一直隐瞒到现在。
中学时,我开始对自己所处的环境感到不适应。虽然我生在日本、长在日本,但母亲的娘家人交流时用的语言几乎都是中文。在新年或盂兰盆节(农历7月15日前后祭拜先祖的日子)等特别的日子里,过来与我们团聚的亲戚讲的也是中文。而且,大家有说有笑,相谈甚欢。我对这种“强烈”的能量感到诧异,便问母亲:“明明在日本,为什么要说中文呢?”
母亲温柔的话语中充满力量,她清楚地告诉我:“因为我们是日本遗孤的孩子。”
所谓“日本遗孤”,指的是在二战末期的混乱中,因无法被遣返回国而被迫留华的日本人。我的曾祖母就是其中之一,我的母亲是第三代日本遗孤。日本遗孤的历史是如此地具有戏剧性。每位遗孤身上都有着厚重且悲惨的故事,甚至可以用来拍电影。我的母亲,以及外婆家的每个亲戚,都有一段难以言尽的过去。
母亲出生在位于中国东北的哈尔滨市。虽然当时的生活不算富裕,但幸运的是,她几乎没有留下痛苦的回忆,有时还会笑着说起那段艰辛往事。母亲曾如实地告诉我,她在读小学时,被曾为日本遗孤的祖母(也就是我的曾祖母)带到日本,此后在各地奔波。一开始母亲的日语不好,因此受了很多罪。母亲寂寥地说:“除家人以外,我们没有其他同伴了。”说这话的时候,她的目光仿佛凝视着远处的故乡。而我似乎明白了积蓄在“今村家”或者说“董家”的这股能量的来源。其背后是曾经的悲惨经历。这份经历催生出孤独。就像我将“董”这个姓氏隐藏起来一样,或许所有亲戚都确确实实地感受到了孤独。正是由于互相分担了这份孤独,他们才能笑对彼此。
明白这件事后,我对中国这个国家产生了强烈的憧憬,想去这个未知的故乡看看。而且,我对自己的中国人身份也产生了自豪感。作为中日混血儿,我既是“今村”,又是“董”。这就是我的命运。上天为我们铺好了名为“命运”的路,该如何前进,这取决于我们如何迈步。不能对命运视而不见。我觉得这是中国教给我的道理。
获奖感想:
能够获得优秀奖,我倍感荣幸。我是同时收到获奖和线上颁奖仪式通知的。“到底是怎样的颁奖仪式呢?”我怀揣一丝不安,出席了颁奖仪式,它的规模之大令我震惊。此外,出席仪式的各位嘉宾还对未来日中两国交流发展做出了殷切期许,他们热情洋溢的话语令我感动、振奋。我愿始终满怀热情,不断进步。
ふたつの苗字
今村寛明(いまむら ひろあき)
学習院大学文学部哲学科1年生
私には苗字がふたつある。「今村」と「董」というこのふたつだ。
「今村」という苗字は私が日本人であることを表す苗字だ。日本で生まれて、日本で暮らしている私は当然ながら「今村」と名乗って生活している。戸籍にも「今村」という苗字で登録されている。しかし、もうひとつの苗字、「董」に関しては滅多に使うことはない。この苗字は私に中国の血が入っていることを表すからだ。
中学、高校を通して、私は日本と中国のハーフであることを友達にあまり打ち明けていない。打ち明けたとしても、それはごくわずかいる心許せる友達にのみだった。その友人にすら、自らの環境を深くは話していない。日本で暮らし、日本語を使っている者が突然、中国の匂いを出すこと。この事に対する、言葉では言い表せない微妙な緊迫感というものを、私は自らの肌を通して感じていた。私は度々思った。冗談めかして中国排斥を唱える友人に「僕は中国とのハーフだよ」と言ったら、どんな顔をするのだろうと。この微妙な緊迫感から、私は自らの身体に中国の血が入っていることを隠して生きてきた。
自分が置かれている環境に対して違和感を持ったのは、中学の頃からだった。日本に生まれて、日本で育った母子家庭の私。それなのに、母の実家で飛び交う言葉はほとんど中国語である。正月やお盆などの特別な時間に集まる親戚もまた、中国語を使っていた。そうして彼らはみな、大きく笑い合っていた。この強烈なエネルギーに違和感を持った私は母に尋ねた。
「どうして日本にいるのに中国語で喋っているの?」
母は優しく、そして力強く、私にはっきりと言った。
「私たちは、中国残留孤児の子なんだよ」
中国残留孤児というのは、第2次世界大戦末期の混乱の中、日本への引き揚げが叶わず、中国に残留せざるを得なかった方々の事を指す。私の曾祖母がその当事者で、私の母はその3代目となる。残留孤児の歴史は、あまりにも劇的だ。残留孤児に関わる一人一人に、一本の映画が作れるほど濃密で、悲惨なストーリーがある。私の母も、そして祖母の家に集まる親戚の一人一人も、筆舌に尽くし難いほどの過去があった。
母は中国東北部、ハルビン市に生まれた。当時の生活は決して裕福なものとは言えなかったが、幸運なことに、苦しい経験をした記憶はあまり無いそうだ。時折笑顔を見せながら当時の苦労話を話していた。しかし、小学生の頃、残留邦人の祖母(私にとっては曾祖母)に連れられて日本に来てからというもの、各地を転々としては、日本語も上手に話せず、辛い思いをしたと神妙に語った。母はぽつりと言った。私たちには家族しか仲間がいないんだよと。そう語る母の目は、遠くにある故郷を見つめているようだった。そして私は、「今村家」または「董家」にみなぎるエネルギーの源がわかったような気がした。彼らの活力は、悲惨な経験に裏打ちされていた。悲惨な経験は孤独を生み出す。ここにいる親戚達も、私が自らの「董」という苗字の存在を隠したのと同じように、心の奥底に確固として存在する孤独を感じていたのだろう。その孤独感を互いに分かち合っていたからこそ、互いに笑い合うことが出来た。
その事がわかってから、私は中国という国に対して、強烈な憧れを抱くようになった。私は、中国という未知なる故郷に行ってみたいと思うようになった。そして中国人としての自分に誇りを持つようにもなった。私はハーフとして生まれた。「今村」であるとともに「董」としても生まれた。そのことは実に私の運命だった。天は我々に運命という道を用意するが、その道をどう進むのかは我々の脚にかかっているのだ。運命に目を背けてはいけない。中国は私にそう教えてくれている気がしている。
受賞の感想:
優秀賞をいただき、大変光栄に思います。受賞の知らせと同時にオンライン表彰式の知らせも届き、一体どんな表彰式なのだろうかと一抹の不安を覚えながら出席しましたが、その規模の大きさにとても驚きました。また表彰式に出席されていたご来賓の方々から寄せられた将来の日中交流の発展に大きく期待しているという熱い言葉に、感動したとともに引き締まる思いもしました。情熱を絶やさず日々精進していきたいです。
(翻译:黄泽西)